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第二部 第48話 迎えに来た侍女

Auteur: 葉月うみ
last update Date de publication: 2026-06-29 00:00:36

 ベネディクトは卓の端を回り込んできた。白と金の上衣が近づくにつれ、甘い香水が濃くなる。花と蜜を混ぜたような匂いが近づき、息を吸うたび舌の奥に甘さが残る。その甘さが、かえって気分を悪くさせた。

「その顔で、どこまで澄ましていられるのかな」

「王太子殿下」

「まだ殿下と呼ぶんだ。いいね。最後まで礼儀正しい令嬢でいてくれると、こちらも楽しい」

 彼の手が、私の肩のレースへ向かって伸びかけた。

 その時、昨夜のアウルの声が耳の奥に戻った。必ず帰ってきて、と言った時の、低く抑えた声だった。私は手袋の内側で指を一度だけ握り込んだ。

 触れられる前に、私は茶器へ手を伸ばすふりをした。袖が卓の端に触れ、磁器が小さく鳴る。音を立てたのはわざとだった。彼の視線が一瞬、茶器へ動く。そのわずかな間に、私は椅子を半分だけ引いた。

「お茶をいただいても?」

 ベネディクトは私の手元を見たあと、口元を緩めた。

「急がなくていいよ。時間はある」

 時間はあると思っているの

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    「事故の三日後だ」 アウルが机へ置いた紹介状の控えには、見覚えのない商会の印影まで写し取られていた。 窓から差し込む冬の光は弱く、書斎の奥までは届いていない。机の上だけが燭台に照らされ、紙に残された署名と印の輪郭がはっきり見えた。 アウルは、使用人を周旋する者の帳面と紹介状の控えを辿っていた。伯爵家へ入った新しい従者は、伯爵が階段から落ちた三日後、「先代の頃からヴェルネ家と縁があった商会」の紹介を受けて雇われていた。「怪我をした当主の家なら、人手が増えても不自然じゃない」 アウルは紹介状の名義を指先で示した。「家令の補佐を任せられる者だと書いてある。ただし、この商会は八年前に畳まれていた」 私は控えへ目を落とした。 署名は整い、印影も一見しただけでは偽物と分からない。けれど、名義に使われた商会はすでになく、署名したはずの人物へ辿り着く手がかりも残っていなかった。 当主が倒れ、屋敷中が混乱していた時期だった。人手を必要としていた伯爵家に、古い縁を名乗る紹介状が届けば、細部まで確かめる余裕はなかったのかもしれない。 怪我人を抱えた家へ、もっともらしい書類と共に人を送り込む。辿ろうとしても、使われた名義から先へは進めないようにしてある。 脅迫状や毒の絵の指示書と、よく似た手配だった。 あの男は事故の三日後に偽の紹介状で入り、伯爵の居室へ続く廊下を見張っていた。 私は紙から顔を上げた。「偶然とは考えにくいわ。監視のために送り込まれた可能性が高いと思う」「俺も同じ考えだ」 アウルは紹介状を畳まなかった。「けど、今ここで捕らえるのは早い」 伯爵家の中には、父君の手紙を樫のうろへ運んだ者がいる。その人物が今も伯爵を守ろうとしているなら、監視役を突然消すことで疑いが向くかもしれない。 従者が戻らなければ、送り込んだ側に異変を悟られるおそれもある。最初に危険にさらされるのは、伯爵だった。 調べるべきなのは、あの従者の名ではない。誰から指示を受け、どこへ報告しているのかだった。 扉が静かに叩かれた。 入ってきたエレーヌの外套から、冷たい空気が流れ込む。裾には市場近くの泥が薄くついていた。「数日、出入りを確認しました」 日ごとに服と立つ場所を変え、伯爵家へ出入りする商人や使用人に紛れて見張ったという。 あの従者は、三日から四日おきに屋敷

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     ファロー子爵家の門前で馬車が止まると、セシル様は父君の手紙を胸元へ引き寄せた。 泣いたあとの目元は赤く、手紙を押さえる指にも、まだ強く力が入っていた。それでも、伯爵家を出た時のように俯いてはいなかった。「今夜から、目立たない者を屋敷の周囲に置く」 アウルが窓の外へ目を向ける。道中、一定の距離を保って馬車についてきた男が、門脇の暗がりで小さく頭を下げた。「子爵家の暮らしは変えなくていい。ただ、しばらく一人では出歩かないで」「分かりました」 セシル様は頷いた。 父君を脅した者たちは、次は娘だと言った。恐怖を与えるためだけの言葉だったとしても、無視はできない。伯爵を階段から落とした者が、今も屋敷の内外を自由に動けるのなら、セシル様の居場所も知られていると考えるべきだった。 扉が開き、子爵家の従者が足台を置いた。 降りる前に、セシル様は私たちを振り返った。「父は、生きて、私に伝えてくれました」 手紙を押さえる指がわずかに震えた。「もう、何も知らないふりはできません。どうか、お父様を助けてください」 私は彼女の手を取った。冷えた手が、私の手を強く握り返す。「お父様を助けるために、私たちも止まりません」 すぐに伯爵家へ踏み込むことはできない。監視している者も、手紙を樫へ運んだ者も、まだ分かっていなかった。焦って動けば、伯爵をさらに危険な場所へ追い込むかもしれない。 セシル様も、それを分かっているのだろう。唇を一度引き結んでから、彼女は頷いた。 門の内側へ歩いていく背中を見送り、扉が閉まるまで、私たちはその場を離れなかった。 離宮へ戻った頃には、夜も深くなっていた。 書斎には火が残されていたが、広い室内を暖めるには足りず、窓辺には白い曇りが張りついている。エレーヌが新しい薪を足す。その手の甲には、樫のうろへ腕を差し入れた時についた細い擦り傷が残っていた。「エレーヌ、その手は大丈夫?」「この程度なら何ともありません」 いつもと変わらない返事だったが、袖口を引き下ろす動きはいつもより少し慎重だった。 外套を脱いでも、私の指先はまだ冷えたままだった。椅子へ向かおうとすると、アウルが私の手を取る。 冷え切っているのを確かめるように指を包み、そのまま暖炉に近い席へ導いた。「先に温まって」「あなたも冷えているでしょう」「俺は君ほどじゃ

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  • 死に戻り令嬢は冤罪を覆し、幼馴染の王子に溺愛される 〜銀の令嬢の甘く危険な事件簿〜   第二章 第59話 油紙の包み

     伯爵家の裏手から少し離れた道に馬車を止めた頃には、夜はいっそう冷え込んでいた。 御者台の灯りは布で覆い、車内の小さなランプも芯を絞っている。窓の端には薄く霜がつき、吐いた息が白くなって、すぐに消えた。正面から訪ねる口実は、昼のうちに失っていた。今夜ここにいることを、伯爵家の誰かに知られるわけにはいかなかった。 セシル様は私の向かいに座り、膝の上の書き板を両手で押さえていた。そこには、昼間の馬車の中で描いた庭の間取りが残っている。屋敷の裏手、低い生垣、古い温室跡、庭の奥の大きな樫。揺れる馬車の中で描かれた線はところどころ歪んでいたが、樫だけははっきり丸で囲まれていた。 エレーヌは外套を羽織り、侍女服の白い襟元を隠していた。髪もいつもより低くまとめ、夜の中で目立つものをできるだけ減らしている。彼女は書き板を一度だけ見て、すぐにセシル様へ返した。「覚えました」 二度目は求めなかった。 アウルは窓の外を確かめてから、声を落とした。「戻る場所はここだ。道の向こうに見張りを一人置いている。異変の合図がない限り、俺たちはここで待つ。約束の時刻を過ぎても戻らなければ、こちらから動く。——戻る時は、小枝を二度、間を置いてもう一度。それが合図だ」 それ以上は説明しなかった。セシル様が聞けば余計に不安になると判断したのだろう。アウルは、いつもの冗談を一つも挟まなかった。 エレーヌが扉に手をかける前に、私は思わず呼び止めた。「エレーヌ」 彼女が振り返る。「無理はしないで」「はい、お嬢様」 返事は短かった。けれど、彼女は一度だけ、私へまっすぐ目を向けた。「必ず戻ります」 扉が細く開き、冷たい空気が車内へ入り込んだ。エレーヌは音を立てずに外へ出ると、すぐに闇の中へ紛れていった。黒い外套の裾が一度だけ見え、それも屋敷へ続く木立の影に消えた。 扉が閉まると、馬車の中に残った灯りがひどく小さく見えた。 待っている間は、かすかな物音ばかりが大きく聞こえた。 遠くで教会の鐘

  • 死に戻り令嬢は冤罪を覆し、幼馴染の王子に溺愛される 〜銀の令嬢の甘く危険な事件簿〜   第二章 第58話 二人だけの郵便箱

     馬車に戻ると、しばらく誰も話さなかった。 車輪が動き出し、屋敷の重い門が後ろへ遠ざかっていく。窓の外では、冬の庭がすぐに石壁に隠れた。セシル様は背筋を伸ばして座っていたが、膝の上の手が震えている。必死に止めようとしているのが、手袋の縫い目の動きで分かった。「申し訳ありません。せっかくお力添えいただいたのに、何も……」「何も、ではありません」 私がそう言うと、セシル様は顔を上げた。泣いてはいなかった。けれど、屋敷へ向かう時よりも、ずっとこらえているように見えた。「父に、あんなふうに言われたのは初めてです」 彼女の声は細くなった。背筋を伸ばしたまま言うので、かえって膝の上の手の震えが目立った。「嫁いだ身だから、この家のことは忘れろと……父は、本当に私を遠ざけたいのでしょうか」 すぐに否定したかった。けれど、私は見ていないことを断言できない。伯爵の心を知っているわけではない。ただ、見たものはいくつかある。 私は膝の上で指をそろえ、言葉を選んだ。「伯爵は、『帰りなさい』と言う前に、廊下の奥を見ました」 セシル様が瞬きをした。「廊下の奥……?」「見慣れない従者がいた場所です。セシル様が家にいらした頃には、いなかった方ですね」「はい。あの者は、私は知りません」 アウルは黙って聞いていた。私が話すのを遮らない。けれど、こちらの言葉を量るように、窓の外から一度だけ私へ視線を戻した。「それから、伯爵の最後の言葉です。『この家のことは忘れなさい』だけなら、突き放す言葉として分かります。けれど、そのあとに庭の樫のことを言いました」 セシル様の手が止まった。「庭の樫……」「お父様は、手紙に庭の木のことをよく書かれていましたか」「ええ。いつもです。庭の木や、季節の菓子のことばかりで……」 そこまで言って、セシル様は口

  • 死に戻り令嬢は冤罪を覆し、幼馴染の王子に溺愛される 〜銀の令嬢の甘く危険な事件簿〜   第二章 第57話 忘れなさい

    「帰りなさい」 ヴェルネ伯爵の言葉に、客間はしんと静まり返った。 大きな声ではなかった。けれど、セシル様の足はその場で止まった。伸ばしかけた手は宙で行き場を失い、父の名を呼ぼうとした唇だけが、かすかに開いたままだった。 伯爵は杖に体重を預け、扉の前に立っていた。顔色は悪く、片足をかばう姿勢には痛みが残っている。それでも、こちらを見る目ははっきりしていた。少なくとも、意識が曖昧な人の目ではない。「お父様……せめて、お加減だけでも。お手紙もなく、家令からのお返事ばかりで、私は」「帰りなさいと言った」 伯爵の声は先ほどより硬かった。セシル様が息を詰める。家令は伯爵のそばで手を差し出しかけたが、触れてよいのか迷うように指を止めた。 私は伯爵の顔だけでなく、視線の動きも見ていた。 言葉は娘へ向いている。けれど、伯爵は時折、廊下の奥を気にしていた。あの見慣れない従者が立っていた方角だ。従者は近づいてこない。ただ、廊下の奥にいて、こちらを見ているのか、伯爵の背を見ているのか、薄暗がりでははっきりしなかった。 あの従者は、伯爵家のお仕着せを着ていた。けれど、袖の丈が合っていない。仕立て直す間もなく着せられた服に見えた。そして、この家の使用人は、誰一人として彼に目を向けない。目を向けないように動いている、と言った方が近い。あの従者の周りだけ、人の動きが避けて流れていた。 セシル様がもう一歩だけ前へ出ようとした。「お父様、私はただ、お顔を見たかっただけです。どうして……」 最後まで言えなかった。どうして会ってくださらないのか。どうして手紙が途絶えたのか。訊きたいことが多すぎて、どれから口にしても届かない気がしているのだと思う。 伯爵は答えなかった。杖の向きを変え、家令の腕を借りるようにして身体を少し横へ向ける。その動きだけでも痛むのか、口元がわずかにこわばった。 そのまま奥へ戻るのだと思った時、伯爵は振り返らずに言った。「……嫁いだ身だ。この家のことは、もう忘れなさい」 セシル様の肩が小さく震えた。 伯爵は少し間を置いた。廊下に立つ従者の影が、ほんのわずか動いたように見えた。暖炉の火が弱く鳴り、客間の中の誰も言葉を挟まない。「庭の樫のことも、手紙に書くことはない」 その最後の一言だけ、硬さが少し薄れた。娘を突き放すための言葉としては、妙に具体的だ

  • 死に戻り令嬢は冤罪を覆し、幼馴染の王子に溺愛される 〜銀の令嬢の甘く危険な事件簿〜   第一部 第1話 処刑の朝

     あと数えるほどの時間で、私の首は石畳に落ちる。誰ひとり殺してなどいないのに。 大聖堂の鐘が朝を割って鳴った。膝をつかされた処刑台の板から、冷えた震えが体の芯まで這い上がってくる。その震えが恐怖なのか寒さなのか、もう自分でも分からなかった。 夜の湿り気を残した石畳には、早くから集まった人々の靴跡が黒く重なっていた。広場を囲む窓からは何人もの顔が覗き、祈りの声に混じって、私の名が低く囁かれる。ステラート侯爵令嬢、殺人犯、神に見捨てられた女。その言葉はざわめきに溶けても、耳の奥に冷たく残った。 両手首は後ろで縛られていた。縄の下で指先は冷えきり、動かそうとしても爪の先がかすかに震えるだけだっ

  • 死に戻り令嬢は冤罪を覆し、幼馴染の王子に溺愛される 〜銀の令嬢の甘く危険な事件簿〜   第一部 第6話 ひとりでは

     薬種店から戻ったあとも、黒ずんだ紫の根の色は、目の裏に残り続けていた。 夜になっても眠る気にはなれず、私は自室の机に向かっていた。燭台の炎は窓から忍び込む夜風に細く揺れ、机の上に置いた紙の端へ影を落としている。羽根ペンを取る指には、まだ薬種店の匂いが残っている気がした。私はロザリー夫人の名と夜会の日付を書きつけたあと、前の人生で見た光景を、ひとつずつ紙の上へ戻していった。 前の私は、恐怖で何も見ていなかったと思っていた。けれど、思い出そうとすれば、細部は消えずに残っている。夜会の広間には磨かれた床に燭台の光が揺れ、甘い酒と香水の匂いが混ざっていた。ロザリー夫人は白と薄金のドレスをまとい、

  • 死に戻り令嬢は冤罪を覆し、幼馴染の王子に溺愛される 〜銀の令嬢の甘く危険な事件簿〜   第一部 第3話 優しい嘘

     セドリック様がお見えです、と告げられた瞬間、首筋に消えたはずの刃の冷たさが戻った気がした。「支度をお願い。あまり待たせては失礼だわ」 声は崩れなかった。侍女が髪に櫛を通し、薄紫のドレスの襟元を整えていく間、私は鏡の中の自分を見ていた。真珠の飾りが控えめに光り、銀の髪は少しずつ令嬢らしく結われていく。前の私は、この装いを選びながら、婚約者に少しでも綺麗だと思われたいと願っていた。何も知らず、何も疑わず、ただ差し出された優しさを信じていた。 最後に髪飾りの金具が小さく鳴った。鏡の中には、前の人生と同じ顔をした私がいる。けれど、その目だけはもう、同じではなかった。 小さな応接室の扉を開ける

  • 死に戻り令嬢は冤罪を覆し、幼馴染の王子に溺愛される 〜銀の令嬢の甘く危険な事件簿〜   第一部 第2話 二度目の目覚め

     白く弾けた世界の中で、私はしばらく息の仕方を忘れていた。 首筋に触れたはずの刃の冷たさは、どこにもなかった。大聖堂の鐘も、群衆の祈りも、香炉の苦い匂いも、すべてが遠い水底へ沈んでいく。身体は処刑台の湿った木板に押しつけられていたはずなのに、今は浮いているのか、落ちているのかも分からない。ただ、最後に喉の奥で握りしめた言葉だけが、白い光の中で消えずに残っていた。 その熱が胸の底でかすかに動いた瞬間、心臓が強く跳ねた。 喉に詰まっていた空気が急に戻り、私は水から引き上げられたように息を吸った。肺が痛むほど空気を求め、指先が薄い布を握りしめる。背中には汗が滲み、寝衣の内側を冷たく濡らしていた

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